ご報告遅れましたが、3月の飛び石連休を利用して、3回目の被災地訪問を行ないました。前回訪問させていただいた仮設住宅や施設を中心に、震災から1年後の被災地の様子をお伺いしてきました。そして今回は、私たちのお師匠さんでもある、河村先生にもご同行していただきました。
<第三次訪問の実施期間>
2012年3月17日(土)~3月21日(水)
<参加者>
河村廣定 「神戸東洋医療学院」教員、「かわむら鍼灸院」副院長
舟橋寛延 「サンリ治療院」院長
清水真奈美 「サンリ治療院」勤務
竹原彩子 「彩はり灸院」院長
森川真二 「SORA鍼灸院」院長
<活動記録>
3/17(土)
仙台市太白区長町のすばる接骨院を訪問、仙台泊 (舟橋)
今後の連携について相談し、被災時の状況、また現在の患者さんの様子をうかがう。
3/18(日)
午前 山元町東田(とうでん)仮設住宅にて治療 (舟橋・清水)
午後 河村先生合流後、ささえ愛山元にてスタッフ治療 (河村・舟橋・清水)
夜 北部の登米市に移動、ボランティアの拠点で宿泊
3/19(月)
午前 南三陸町 廻館コミュニティセンターにて治療 (河村・舟橋・清水)
午後 南三陸町 入谷福祉型仮設住宅にて治療 (河村・舟橋・清水)
夜 仙台に移動、宿泊
3/20(火)
終日 仙台市長町仮設住宅にて治療 (河村・舟橋・清水・竹原・森川)
夜 被災地障がい者センターみやぎ事務所にてスタッフに治療 (竹原・森川)
3/21(水)
午前 ささえ愛山元にてデイサービス利用者、スタッフに治療 (竹原・森川)
今回のボランティアで印象に残っていることは、治療を楽しみに待って下さっていたこと、ローラー鍼を使っていてくれたことです。こちらの一方的な支援ではなく、また、私たちの思いが通じているようでうれしかったです。
はり灸の効果は、一時的なものもあります。1回の治療だけでは、限界もあります。それが、セルフケアを行なうことによってその効果が持続し、自分でケアすることもできると考えています。
実際、「コロコロしていたら気持ちい」とか、「ローラー鍼で、ひざの調子がいい」とか、毎日ローラー鍼を使っている方もおられました。ただ、即効性のある痛みに関して使われている方も多かったのですが、内臓のケアをされている方は少なかったです(「飲みすぎたから肝臓をコロコロしています」といった方はおられましたが)。
しかし、阪神大震災の教訓としてもこれから心配なのは、慢性期疾患です。普段の生活が過ごせない上に、ストレス反応による心疾患、空気の悪さによる呼吸器疾患の増加が危惧されています。あまり実感のわかない臓器の不調ですが、大事なポイントです。
そして前回同様、もしくはそれ以上に心配になったのは、現地スタッフの方の疲労です。被災地の方々を支える、被災者の方。ほとんど休み無く働かれている方もおられます。もう口で多くを語らずとも、身体が悲鳴をあげていました。東北の人は、我慢強さで有名です。その我慢の限界を超えないかが不安です。
今回の訪問をふまえて、また次回の訪問を準備していきます。
はり灸レンジャー ブルー 森川
ふと気づくと私が購読している朝日新聞から震災関連の記事が減りました。
3月11日の前後はずいぶん多かったのですが、それもメディアの定めかもしれません。
こういった時だからこそ、被災地の声を届けていかなければなりません。
ずいぶん遅くなってしまいましたが、3月の第3回目の訪問についてレポートします。
しばらく連載形式で現地の様子をお届けしたいと思います。
なんだかあわただしく日々をすごしていると、
3月下旬の被災地訪問も遠い夢の世界のような気がします。
こうして文章にまとめようと当時のカルテを見返したり、
自分のメモをあさっていると次々に思い出されます。
前回の訪問は宮城県のみでした。
車両で往復したので福島県の福祉拠点にも顔を出したかったのですが、
相手方との日程があわず残念でした。
しかし、数えてみると7か所もの仮設住宅や地域の拠点におじゃまでき、
治療はもちろんのこと、震災から1年たった現在の心境をじっくりうかがうことができ、
大きな成果を感じた訪問でした。
<参加者>
河村廣定 「神戸東洋医療学院」鍼灸学科・学科長、「かわむら鍼灸院」副院長
舟橋寛延 「サンリ治療院」院長
清水真奈美 「サンリ治療院」勤務
竹原彩子 「彩はり灸院」院長
森川真二 「SORA鍼灸院」院長
<活動記録>
3/17(土)
仙台市太白区長町のすばる接骨院を訪問、仙台泊 (舟橋)
今後の連携について相談し、被災時の状況、また現在の患者さんの様子をうかがう。
3/18(日)
午前 山元町東田(とうでん)仮設住宅にて治療 (舟橋・清水)
午後 河村先生合流後、ささえ愛山元にてスタッフ治療 (河村・舟橋・清水)
夜 北部の登米市に移動、ボランティアの拠点で宿泊
3/19(月)
午前 南三陸町 廻館(まわりだて)コミュニティセンターにて治療 (河村・舟橋・清水)
午後 南三陸町 入谷福祉型仮設住宅にて治療 (河村・舟橋・清水)
夜 仙台に移動、宿泊
3/20(火)
終日 仙台市長町仮設住宅にて治療 (河村・舟橋・清水・竹原・森川)
夜 被災地障がい者センターみやぎ事務所にてスタッフに治療 (竹原・森川)
3/21(水)
午前 ささえ愛山元にてデイサービス利用者、スタッフに治療 (竹原・森川)
以上が前回の概要です、
次回から現場のレポートを投稿します!
3月19日(月・祝) 山元町
宮城県の南部、福島県との県境に近い山元町を訪問しました。
2011年9月にはじめて訪れたのですが、
震災と津波で大きな被害をうけたNPO法人「ささえ愛 山元」さんの皆さんとの再会できました。
この日は職員さんの多くが出迎えて下さり、
まずこちらのデイサービスとおつきあいのある利用者さんのお宅に行きましょう、となりました。
そのお宅は仮設住宅です。
山元町は町の東側が太平洋に面していて、津波の大きな被害を受けました。
常磐線も駅舎、線路とも破壊されそのままの状態です。
家屋のうち全壊2200棟、半壊1000余。
これはさほど大きな町でない山元町にしてはすごい数です。
町のHPによると現在の世帯数は4,862です。
ちなみにお亡くなりになった方は600名をこえます。
「ささえ愛」さんを出て、町を西に向かうとゆるやかに高台になっています。
町の東側に甚大な被害が出たせいで、仮設住宅は西側の高台に点在しています。
そのうちの「東田仮設住宅」に到着。
「ささえ愛」の職員さんの案内のもと清水先生と舟橋が手分けしてお宅を訪問し治療しました。
舟橋が治療したAさんご夫婦は、がんらい障害もあった様子で、
しかもご高齢のため困難な生活をしいられている様子がうかがえました。
奥さんはもともと鍼灸治療の経験があったので喜んで受け入れてくださいました。
お話を聞くとその治療院もおそらく津波で流されたのではないか?とのこと。
このAさんは一代かけて稼ぎ立派なおうちを建てたそうですが、
津波で土台しか残らなかったそうです。
「おれは一生かけて何をしてきたんだろう、と思ったねえ」
とお話しされます。その無念たるや・・・
しかも住宅ローンはあと数年残っているそうです。
住む家はないのにローンだけは続くそのやりきれなさ。
そしてご高齢であるゆえに、再起をはかるのも容易ではありません。
清水・舟橋それぞれ3人ずつ治療し、仮設住宅にお住まいの方合計6人の方を拝見しました。
単純な腰痛や肩こりではなく、循環器など慢性疾患が目立ちました。
今後も関わりを持ちつつ、お付き合いしたいものです。
(つづく 舟橋)
3/19(月・祝) 山元町
午後は「ささえ愛」の職員さんに治療しました。
おりから神戸の河村先生も飛行機で駆けつけて下さり、3人の鍼灸師による治療です。
職員さん自身も被災者でありますし、肉親や友人のどなたかを失っています。
ある職員さんが述懐されました。
「震災直後はなにもやる気になれなくて、同僚も亡くなっているし・・
仕事からもはなれていたんです。
でも理事長さんが、やろう、やろうってひっぱてくれて今日まで走ってきました。
いま考えるとこの「ささえ愛」の仕事があったから毎日を過ごせたのだと思います。」
そんな職員さん方がハードワークになるのは間違いありません。
私ももと福祉関連の仕事についていたのでいささか心当たりがあるのですが、
福祉職につく人は自分のことを後回しにして他人のために身をけずる、
という傾向が少なくありません。
それ自体はけっして悪いことではないのですが、度を過ぎるとからだを壊します。
現に施術中、不眠の訴えが目立ちました。
もう大震災から1年以上が経過しているのですが、
この1年の時間の流れとはすさまじいものだったにちがいありません。
特に地域のリーダー格の人々は仲間を鼓舞しつつ、ご自分にも鞭を打ってこられたはずです。
一種の躁状態でなければ走り続けられないのかもしれません。
鍼灸治療によって、ふみすぎたアクセルを少し緩和できるといいな、と思っています。
治療後は山元町の被害現場を車で案内いただきました。
これも前回に引き続き2回目です。
2011年9月、そして2012年3月にこの山元町のに立ちました。
ほんのわずか水が引いたようですが、地盤沈下したところはどうしようもありません。
海沿いの数百軒のお宅は住宅困難です。
代替地を行政が見つけてくれるのでしょうか?
おそらくまだ若い家族はお子さんの進学のことや、
ご自身の転勤もありこの地を離れるかもしれません。
後に残るのは生粋の地元の方々と生活再建がむずかしい方々ではないでしょうか。
次回、そんな町が直面する困難さに触れたことをレポートします。
(つづく 舟橋)
3/19(月・祝)
地元の商店街で揺れを感じた話。
ボランティアの最中、震度2~3の揺れに襲われることがしばしばあります。
2011年5月、最初に仙台市内に入った日、
避難所になっているコミュニティセンターで障がい児と遊んでいたら、
震度3ぐらいのそれもかなり長い揺れを感じました。
子どもたちは「こわい!」と叫びますし、こちらも真っ青になりました。
幸い何事もなかったのですが、しばらく避難所の雰囲気はザワザワしていました。
2011年9月の際も宮城県北部の登米市というところのボランティア宿舎で眠っていた早朝、
震度2ぐらい?の揺れがあり飛び起きました。
そして今回2012年3月です。
幸い活動中は震度2以上のものは無かったようですが、
先日レポートした山元町でちょっと買い物に立ち寄ったお店で地震がありました。
しかし、私は鈍感なのか気づきませんでした。
清水さんはなんだかユラユラしているな~と感じたそうです。
お店のおじさんが、「揺れているね~」と言うので気づきました。
地元の方々はかなり敏感になられています。
それはそうですね。
NHKスペシャルで地震の特番を見ると昨年3月以降の地震の多さに驚きます。
薄気味わるいものです。
実は今回も東北に行く直前に関東で震度5の地震がありました。
コンビニの監視カメラの映像が何度も流れていましたね。
店員さんが逃げまどい、ガラス瓶が倒れる様子。
間もなく6歳になる私の息子は、初めて私の東北行きを止めました・・・
家族の心中を考えるとやるせないです。
ところでその小さなスーパーは常磐線の駅「山下駅」で線路も含めて全壊です。
その駅前のスーパーでスーパーを営んでいらっしゃいます。
問題は今後のJRの線路のつけかえだそうです。
津波の被害を想定しより内陸側につけかえようという動きがあるそうです。
そのことは私も以前新聞記事で読みました。
しかし、そういった決定が地元の方々の合意のもとか、というとそうでもないようです。
JRや行政、地権者の方々など様々な思惑もあります。
思えば1995年の阪神淡路大震災の際も直後に行政が拙速に区画整理の計画を発表し
住民の大きな反発をくらったのでした。
民主主義とは元来時間や手間ひまのかかるものです。
地元の方々が自由に発言し、再び住みやすい町になるよう願っています。
(舟橋)