初めての被災地訪問

今回、はり灸レンジャーの活動に初めて同行させて頂きました木村智美と申します。
私は、9月17日(登米市)と18日(南三陸町)の活動に参加しました。

登米市では、被災地障がい者センター・南三陸の方々に大変お世話になりました。施術先へ向け車での移動中には、職員さんがご自身の体験を惜しみなく話して下さいました。被災された状況、避難所生活、自衛隊員への感謝…現仮設住宅での生活、今後の課題。
色々伺った中で、これはやっておこうと思った事があります。「もしもの場合を想定しての家族間の話し合いを、何も起きていない時から決めておいた方が良いです。」家族や親戚に、いざという時にはどこの避難所に行く…とか、その避難所が危なければこちらに行く…等、停電で連絡が途絶えてもあらかじめ把握できる為だそうです。私が住む飛騨高山では、平成16年には台風23号により一部に被害が出ました。身近に災害が発生してなお、自宅が巻き込まれる事を想定していませんでした。家族間の話し合いは難しくないと思うので、宜しければブログを読まれた方も参考にして下さい。

活動の感想ですが、ボランティアと聞くと、何だか人の役に立てるように思っていたのですが、実際に自分が活動して思ったのは、日頃の行いがそのまま出てしまうという事でした。当然だと思われるかもしれませんが、これは結構身にしみて感じました。テレビや新聞の報道と違い、施術を受けて下さる方の言葉は聞き流すことができません。自身の言動が軽率だったと反省する部分もあります。でも、実際に暮らす人々と言葉を交わせたからこそ、己の未熟さを知る事ができたのだと思います。
仮設住宅は狭く行動範囲は限られますが、地域で健康体操が実施されているようですし、個人的に近所を散歩したりと運動を心掛けている方もおり、健康への意識を垣間見る事ができました。むしろこちらの方が見習わなくては!と思う場面もありました。現地で関わらせて頂いた方々に深く御礼申し上げます。
施術は自分なりに精一杯頑張りましたが、内心、短時間で結果を出すのは難しいと思った場面では、先輩レンジャーがフォローして下さり、非常に心強かったです。有資格者として、まだまだ力不足だと痛感しました。気付いた事は今後、意識して改善に努めます。
集会所の隣にグラウンドが作られ、子供達が元気に遊ぶ姿に心が和みました。子供達の笑顔で、地域を明るく照らして欲しいと思います。

私は昨年度、反応点治療研究会の勉強会に参加していました。その時にご指導下さった舟橋寛延先生が、かつて阪神淡路大震災でボランティア活動をされたとの事でしたので、東日本大震災の直後は、活動経験のある舟橋先生に「私も何かしたい」と話していました。でも、いざはり灸レンジャーの活動が始まってみると、活動日が子供達の園行事や仕事の都合と重なり、参加を見送ってきました。
今年度は更に役が増え、反応点治療の勉強会にも行かなくなり、今更私に出番はないだろうと思っていたのですが、そんな私の気持ちを察したのでしょうか、今年7月に舟橋先生とお会いした際、どうすれば今回第6回目の活動に参加できるか、細かな助言まで頂きました。今回も子供の行事予定と重なっており、メールで情報を頂いた時は、スケジュール帳と照らし合わせて、半ば参加を諦めていたのですが、実際の会話での相手の言葉というのは背中を押してくれるものですね。その後、自分が本当にやりたい事を熱意を持って家族に打ち明け、今回ようやく家族が留守中の子供の世話を、行事も含めて引き受けてくれました。
家族を説得する際には、これまでに出会った多くの方々の言葉も私を支えてくれました。
震災から1年半が経つ中で、実際に現地に足を運んだ方から伺った被災地の現状、中にはボランティアへの心構えを説いて下さった方もいます。先輩レンジャーの活動記録も励みになりました。自分の行動を最終決定するのは自分ですが、自他共に認めるマイペースな私が動けたのは、皆様のお力添えのおかげです。本当にありがとうございました。

木村智美

活動を通して感じた変化

はり灸レンジャ- イエロー清水です。

今回は震災からは1年半経過という節目の時期での訪問となりました。
また、個人的には初めてはり灸レンジャーに参加してから丸1年経っているという事もありいろんな変化を感じました。

ひとつはやはり被災地の皆さんの生活の変化。
一年前訪問時は仮設住宅に入居したばかりの方が多く、あまりにも変わってしまった生活に精一杯…という印象を受けました。
お体も、震災で負った怪我やその後の状況の変化によって生じた負調がまだまだ残っていた事を覚えています。

今回お会いした方たちは仮設住宅での生活にもある程度慣れてきたご様子でした。
それでも、今までと全く違う生活環境や人間関係の中にいることには変わりはなく
「動かなくなって、体が萎えてきた」
「お隣とあまりに(家が)近すぎて気疲れしてしまう」
など、現在の生活に対しての悩みや不調の訴えを多く伺いました。
また、慣れてきたからこそ「今まで意識が向かなかった体の変調や小さな疲れを感じるようになってきた」のではと思います。
まだまだ被災された方の帰還、生活の再建には時間がかかると言われています。これからも続く、仮設住宅での生活をどう乗りきっていくかが大変なのだと思います。

はり灸師は、人々の生活に密着した仕事です。
長丁場になるであろう現在の生活の中の不安や、体の不調への不安に少しでも寄り添い耳を傾けていくことが、私達はり灸レンジャーが、これからできる事ではないかと思いました。

嬉しい変化もありました。
今回はレンジャーとしては6回目の訪問。
いくつか再訪させて頂いた仮設住宅の皆様のお体を再び治療し、経過を伺うことが出来ました。
皆さん治療をスムーズに受けてくださり、「はり灸はこわくなかった」「前回受けたら体が楽だった」など
と治療後の感想を聞くことが出来ました。
また初訪問時には遠慮されていたスタッフの方達が「今回は治療楽しみにしていました」
と言って下さり、治療を行うことが出来たことも、嬉しい変化の一つです。
これも一度きりの活動ではなく、レンジャーの皆が活動を続け、今まで関係を築いてきたからこその変化ではと思っています。
『はり灸を知ってもらう、体のメンテナンスの一つとしてとして取り入れて頂くきっかけとする』
というレンジャーの活動結果を実感できた今回の訪問でした。

被災地に行かせていただいて

初めまして。私はサンリ治療院でスタッフとしてお世話になっている吉村の姉です。予め申し上げます。これから長文がはじまります。読みにくい箇所、わかりにくい言い回しがたくさんあります。大変失礼いたします。

今回、縁あって鍼灸レンジャーのボランティア活動に同行させていただきました。
2か月程前、はじめてお話をいただいたときは、私になにができるだろう、と不安が先走りました。
私は昨年6月まで手術室で3年と3か月看護師として働いておりましたが、手術室での業務で患者さんと関わる機会や時間は、手術に関連するものであったため、自分の看護師としての経験が今回のボランティアにどう生かせるのか想像できなかったのです。しかしせっかくいただいた機会だ、行こう!と決心しました。
そして私は、生き方をみつめなおす時間をいただくことになったのです。

17日の午前中、初めて仮設住宅に行きました。テレビのニュースでみた、仮設住宅です。住んでみえるのは震災の津波で家が流されてしまった方々です。自身の表情が硬くなるのに気づき、気持ちを切り替えて車を降りました。
準備を整えて、白衣を着て、問診票をもとにお一人ずつお話をきいていきました。はじめると同時に当初抱いていた不安は吹き飛びました。
周りの人々を笑わせるキャラクターの方、体の不調について辛そうに話をされる方、様々な方がみえました。楽しい会話に思わず笑ったり、辛そうな部分に手を触れたりしてのどがカラカラになりながら会話をしていたのですが、話の中で「流されてからは…」という言葉を聴く度に「目の前のこの人は、その周りに座っている方は、みんな津波で家を流されたんだ」と辛い気持ちになり、曇った表情を問診票をみるふりをしながら何度か隠しました。

はじめてこんな気持ちになりました。テレビで仮設の様子を見ると大変だなという気持ちが湧き上がりましたが、直接自分がそこへ行って仮設住宅に住んでみえる方とお話をするというのとでは心へのくいこみ度合いは全く違いました。そこにはリアル、現実がありました。自分と同じ、人が、そこにはいました。

岐阜に戻ってから私は、今回訪れた南三陸町、山元町の津波の映像を見ました。そこにはあの「時」がありました。恐ろしい、そして悲しいその「時」がありました。
自分の生活する場所は、人それぞれありますが、自分にとっての「大切なもの」はみんな同じです。
「突然震災で自分が生まれ育ち生活している場所が無くなったら」と想像することはできても、実際に経験した方々と真に共感することは決してできない、と強く感じました。
そこでみえたものは、自分がいかにうわべだけで震災をとらえていたか、ということです。
震災が起こったあの時、私は当時住んでいた長野県松本市で手術室にいました。ぐらぐらと揺れる手術室で「こんなに揺れてる、どこかで大変な被害がでていないだろうか」と思っていました。
約40分後、休憩室で津波が田畑を突き進んでいる中継映像が流れていました。別の中継場所の映像では粉々になった家々が巨大な水たまりの中に浮かんでいました。すでに津波が押しよせて水没している町の様子でした。「ここにいた人たちはどうなってしまったのだろう」―今までみたことのない光景を混乱した状態で見ていました。その日の夕食は外食でしたが、暗い気持ちで食べました。自分が住んでいる町はいつもと変わりなく在り、食事も普通にでてくる。昼間みた映像が頭を離れず、普通でいられる自分を申し訳なく感じていました。
自分になにができるだろう、見つけた答えは「自分の仕事をしっかりやろう、感謝のきもちとともに生活を送ろう」でした。新たな決心とともに歩み始めました。
でも、日々様々なことがあり、そうは思えない時間もありました。そして震災のことを思いだす機会もほとんど無くなりました。

そんな私が宮城県に行かせていただいていました。
現地へ行き、家の土台だけが残る南三陸町、山元町を見ました。南三陸町は、南三陸町で生まれ育ち現在は仮設住宅に住んでおられるOさんに案内していただきました。「ここにもたくさん家があったんです」「あそこに(私の)家があったんです」「ここで津波が止まったんです」…私はただただ目の前に広がるなにもない景色と過去に家々が町があったという現実を想像してそして、人々と出会いました。私は自分を振り返る機会とこれからどうありたいか考える時間をいただきました。

得た学びは、「関心から行動が生まれる」というものでした。
ある出来事・問題があるとして、それに関心がない場合は、その人にとってその出来事・問題は無いも同然。
関心があれば、遠い場所のことでもまるで自分に起きていることのように感じ、それに関して興味をもち調べるという行動をとる。
私は今回東北へ行かせていただいたことで後者の立場をとっていました。

震災に関連する様々な問題について調べ、自分の考え、意見をもとうと思います。
自分がそうあることで、自分に関わりある人にそれを伝え、関心の輪を深め広げることができると思います。
より多くの目が東北に向くことで、関連するさまざまな問題に関してより血の通った解決策が選択されるようになるのではないかと思います。

~心に残ったこと~
震災で自分の住む町が津波被害を受け、家を失い、仮設住宅で生活を送っている方々の中に、癌の療養中の方がみえました。仮設に住んでいらっしゃる方々は皆、仕事や健康など様々な問題を抱えており、そのひとつひとつに優劣などつけられるものではありませんが、非常に負担を抱えている方々がいるという事実を知りました。一人一人抱える事情は違い、平等な対応ではとても対応しきれない状況が現実にあり、より丁寧な対応が必要であると感じました。
はたからでは知りえない深刻な問題を抱える人を、いかに孤立させないようにできるか。私はその答えの一つを、今回のボランティアを通してみつけられた気がします。
鍼灸治療を受けるということは、他人に体に触れられるということですが、体に触れるというのは「外界とのつながりを感じる一つの手段」であると思います。そして言葉とは違う種類の安心感をもたらします。
病気を抱える人は、とても孤独です。苦しみは自分のものであり、どんなに身近な人が心から心配し寄り添っても、実際に苦痛を受けるのはその人だからです。癌の身体をもつのは自分自身でありその身体的苦痛は他者と分け合うことはできません。
それでも苦痛を抱えていると知ってくれている人がいるというのは苦痛の闇を照らす光となりその孤独を和らげるのではないでしょうか。
話をしましょうというとなかなか身構えてしまうのに、なぜ鍼灸治療を受ける中で自然と言葉がでてくるのか。それは体に触れられることで外界とのつながりを無意識のうちに感じながら、鍼灸治療により苦痛が軽減されたり緊張がほぐれたり気持ちがいいという経験をすることで、心の緊張がほぐれるからでしょう。鍼灸治療は、癌を抱えている精神的不安を軽減する力ももっていると感じます。

被災された方々は、自分の生活してきた場所を失い、大きな生活環境の変化を強いられました。震災前は身体の不調はなかったが震災後の環境の変化で体調を崩される方々が多くみえました。
その中で、持病を抱えてみえる方々の負担はより深刻となります。
患者の状態をわかっているのは家族などの身近な人や、治療の場である病院の医療従事者です。しかし患者を支えることができる立場のその人自身も被災者であるため、環境の変化に伴う様々な精神的負担、不安があり、患者とその家族をとりまく状況はより過酷であろうと思います。
私は母親に癌がみつかり、亡くなるまでそばで身の回りの介助をしてきました。大切な人が苦しむのをそばでみている悲しみは筆舌しがたいものでした。
家族にとっての安寧は、癌を患う家族の苦痛が和らぐこと。
鍼灸の治療により、患者本人も、その家族も、心と身体が癒されたのではないかと思います。

長くなりましたが、最後に今回東北でお世話になった皆様、出会えた皆様に心から感謝を申しあげます。
今回の経験のおかげで、心に大きな宝物をいただきました。自分の中で大切にしたいこと、これからやり続けたいことがみつけられました。遠くはなれていても、心は東北に向いています。自分が変わりここからはじまる、そんな確信で今心が満たされています。今回の経験をいかし、私は行動します。

そしてこんな自分になれたのもすべて鍼灸レンジャーのみなさんと行かせていただけたおかげです。本当に幸せです。ありがとうございました。
次回もお邪魔でなければ是非参加させてください。また会える日を楽しみに、日々自分にできることをやり続けます。

東北ボランティア

この度は、初めてはり灸レンジャーの活動に参加させていただきました 吉村早也香です。

私は今年の3月からサンリ治療院で勉強させていただいています。

その流れで今回活動のお誘いをいただきました。

まず、今回の活動参加を通して東北がうんと身近なものになりました。

そして印象に残ったのが東北の方々の人柄です。メディアで東北の方々の忍耐力が話題になっていましたが、今回地元の方と直接お話しする中でそれを実感できました。

人間辛いことがあって前に進んでいける生き物だと思うのですが大地震、津波…と次々に非現実的な出来事が起こったとき果たしてどんな風に人間は歩んでいくのか…。そんな被災された方々が様々なことを乗り越えながら今までの生活以上によりよいものを築きあげようと前向きに活動されている姿に感動し心打たれました。

障害者センター職員のOさんのお話を始め、仮設の方々のお話を聞く中で本当に恐ろしい経験をされたんだと改めて強く感じました。

震災が起こって間もない当時、被災はしていないものの私自身とてもつらい思いでしたが、時間が経てばその思いも薄れ日々淡々とした生活を送っている自分に気が付きました。確かにそれが普通といえば普通なのですが、それはなんだか寂しい気がしました。そんな中実際自分自身被災した現場を見て、地元の人との交流の中で”これからも東北を思い続けたい”と思いました。

東北を思い続けること、関心を持ち続けることが今回の震災を風化させない大きな力となることを信じます。

そして、私自身鍼灸師としての未熟さも痛感することができとても大切な機会となりました。

患者さんへの声かけもまだまだで、最大限の自分をもっと高めていかなければと強く思いました。

技能・知識・接し方…治療といっても色んな要素がありそれをクリアしていかなければなりません。

道のりは長いですが、着実に前に進んでいきたいと思います。

第6回(2012/9/16~20)東北鍼灸ボランティア活動の概要

シルバーウィークを利用して、第6回目の被災地鍼灸ボランティアを行ないました。今回は短期間の訪問でしたが、施術数は今までの中でも最も多く、中身の濃い活動でした。
新しいメンバー、そして新しい場所でも、鍼灸治療を提供することができました。まだまだ被災地では、身体のケアが必要と感じました。今後も細く長くの活動を展開していきたいと思います。
まずは簡単に、活動の概況を報告致します。

【第6回訪問の実施期間】
2012年9月16日(日)~9月20日(木)

【参加者】
舟橋寛延 (サンリ治療院 院長)
清水真奈美 (サンリ治療院 勤務)
吉村早也香 (サンリ治療院 勤務)
吉村美陽子 (看護士・保健師)
木村智美 (鍼灸マッサージ師)
森川真二 (SORA鍼灸院)

【活動記録】
9/16(日)
終日 岐阜より車にて仙台まで移動
9/17(月)
午前 レンタカーとの車2台に分乗し、南三陸町まで移動
午後 登米市 南方仮設にて施術
登米市のボランティア拠点にて、現地職員に施術、宿泊
9/18(火)
午前 南三陸町 入谷福祉型仮設住宅にて施術
午後 南三陸町 現地行政職員、ご家族に施術
仙台に移動、宿泊
9/19(水)
午前 ささえ愛山元にてデイサービス利用者、職員に施術
仙台に移動、宿泊
9/20(木)
被災地障がい者センターみやぎたすけっとにて、打ち合わせ
山元町にて視察

【施術記録】
計 81人(26人)
(まるカッコ内は、再診二回目以上の治療になります)

登米市 南方仮設
計36人(0人)

南三陸町 入谷福祉仮設
計12人(11人)
内訳 現地職員 7人(6人)、入居者 5人(5人)

南三陸町 行政職員
計11人(0人)

関係者、ご家族
計11人(9人)
内訳 現地職員 4人(3人)、職員の家族 4人(3人)

山元町 ささえ愛山元
計11人(9人)
内訳 現地職員 7人(5人)、デイ利用者 2人(2人)、東田仮設 2人(2人)

活動詳細、感想などは、また随時アップしていきます。

(森川)

7/13(金)~16(月・祝) 第5回 訪問の報告 その5

はり灸レッド舟橋です。
何度も書いてきました、7月の東北訪問。
アッという間に8月の声を聞いています。いよいよ本日が最後になります。

7/16(月・祝)
訪問の最終日の朝、被災地障がい者センターみやぎ・南三陸の宿泊所でひとり目を覚ましました。
連日の行動でさすがに私も疲れが出たようです。昨夜は気づかないうちに眠ってしまっていたようです。

この日は、センターの職員さんや、そのお知り合いの方の治療を致しました。

職員さんは今年の5月に続いて2回目の治療で、喜んでいただけたと思います。
やはり単純な肩こりなどではなく、内臓のメンテナンスが必要であったり、頭痛、不眠傾向が見られます。
さもありなん、という感じです。

ご自身がたも不慣れな仮設住宅で暮らしながら、他の被災者の支援をしているのです。
日々の雑事に加えて、先行きの不透明な暮らしの中で、のんびりできる方がおかしいでしょう。

思い出すと、地震からこっち、地元NPO職員さんは、皆さん懸命に活動をされてきました。

昨年は、われわれ鍼灸師が、職員さんの憔悴した様子を見かねて
「治療しましょうか?」
と声をおかけしても、遠慮される場面が多かったように記憶しています。

一つには鍼灸というものが、あまり普及していない東北地方ですから、まず鍼灸への警戒心、そして、あまり素性の分らない押しかけボランティアのわれわれへの抵抗感もあったかも知れません。

しかし、それ以上に大きいのは、
「自分のことは後回しにして、もっと困っている人から治療してあげて欲しい」
という心の声でしょう。

他の方を思いやる気持ちを今にして深く感じるものです。
同時に、現地の活動も、何かにせかされるような急性期は終息しつつあり、職員さんもホッと治療を受けてみようか、という気持ちになられたのでは、とも感じます。
それは善い兆候だと思われます。

ただ・・
今しがた、急性期は終息しつつあり、と書きました。
それは復興の足取りが確かなものになった、と楽観していうのではありません。

とにかく目の前のことに懸命だった時期は過ぎ去りつつあるという意味です。
そして、前回投稿したなかで現地のKさんがつぶやいた
「端境期(はざかいき)。次へ向かってのエアポケット」
という言葉が、しんどさを表わしています。

一方で思います。
しんどい時期、エアポケットの時期こそ、1年さき、10年さき、いえ100年さきを見すえた活動のプランを大胆に描ける機会かも知れません。

さあ、登米市での治療活動を終え、レンタカーを仙台駅に返却。
空港線という鉄道で仙台空港に向かい、すっかりなじんだ東北にお別れです。

以上、5回にわたって書き連ねてきた7月の報告はいったん終了です。
お伝えしたいエピソードはたくさんありますので、また折にふれて投稿していきます。

次回の「はり灸レンジャー」の東北鍼灸ボランティアは9月の中旬を予定しています。
いままでのメンバーに加えてニューフェイスが複数参加してくれそうです、楽しみです!

7/13(金)~16(月・祝) 第5回 訪問の報告 その4

はり灸レンジャー・レッド舟橋です。
先日に引き続き、7月の東北訪問の報告をいたします。
今回は、はり灸レンジャーらしく、治療のことを中心に。

7/15(日)の夕方、南三陸を引き上げ、お隣の登米市にある「被災地障がい者センターみやぎ・南三陸支部」の事務所にもどったところ、仙台のスタッフさんが用事でいらしていました。

ずいぶんお疲れのご様子でしたので、早速治療いたしました。
スタッフKさんは、仙台の事務所で復興活動の中心的役割を担ってきた方です。
八面六臂の活躍で、私たちをはじめ外部のボランティアを受け入れ、きめこまかく采配して下さっていました。
いつも温厚で、落ち着いたリーダーぶりに見惚れたものです。

そんなKさんも震災後は、1~2回過労のため倒れたとのこと。
心身ともに限界に来ていたのですね。

今回、久しぶりにお目にかかり(今年3月以来?)、お体を拝見し、ゆっくり治療とお話ができました。

責任ある立場の方の多くがそうであるように、無理に無理を重ねている様子が、ツボを触ると分ります。
首や肩こりは定番ともいえますが、その引き金にもなる咽頭粘膜、あるいは目のツボなどもしっかり施術いたしました。
東北にうかがい、鍼灸治療を展開する際、やはり筋肉痛など整形外科的なつらさが最初にあります。
しかし、仔細にお体を拝見すると、内臓の疲労もあり、目や鼻、ノドなど、ご本人も気づかない炎症反応が見つかります。
単に筋肉疲労だけではなく、身体全体の治療こそが鍼灸の面目躍如と言えましょう。

さて、以下、Kさんのお話です。
「今の被災地は、端境期(はざかいき)=課題の入れ替わりの次期かも知れません。
震災から1年ぐらいまでは、突っ走って来て、いまエアポケットのようになっています。
復興へ向けて次のステップをどう踏んでいけばいいか・・・・」

Kさんをはじめ、私たちがお世話になる宮城県のNPOは、障がい者の支援を行なっています。
そして、震災前も障がい者の生活は決して余裕があった訳ではありません。
震災をきっかけに多くの人々が出会っています。
そして、新たな街づくりの試みがあちらこちらで生まれています。
そこに障がいを持つ当事者の視点を入れていく活動が問われてるのです。

一方、Kさんは、真面目な性格もあるのでしょう、
「振り返ると、もっといろいろやれたんではないか、と思ったりします」
と小さくつぶやいていました。

Kさんの働きぶりをしっている人なら誰でも
「そんなことはないよ!Kさんは、十二分に頑張ったよ」
と言ってあげたくなることでしょう。

周囲のその言葉を何度も聞いているはずのKさんが、
「それでも、しかし・・・」
と呻吟するところに、被災地で活動する方々の苦悩の深さを感じました。

連続投稿も4回目を迎えたこの報告。
あと1回で、大よその流れは終わりです。

(つづく)

7/13(金)~16(月・祝) 第5回 訪問の報告 その3

連続での投稿になります。はり灸レッドこと舟橋です。

7月の訪問は私一人でしたので、たくさんの方々の治療には限界があります。
しかし、地域で奮闘するNPOの職員さんと情報交換をしたり、いまの課題を掘り下げるという視察的な位置づけもあり、そういう意味で山内明美さんとお目にかかれたのは望外の喜びでした。

「こども東北学」などの著書で、注目を集めている山内明美さんは30代の若手研究者です。
ご出身は南三陸町。それも浜辺ぞいではなく、少し内陸よりで里山のような風景が広がる地域です。

現在、山内さんは南三陸復興ステーションという現地組織に常駐しておられます。
私たち「はり灸レンジャー」が今までにも治療で訪問した入谷地区の仮設の近くにステーションはあります。
廃校になった小学校にある事務所はなんとも風情のある場所でした。

たまたま我々のボランティア活動の現地案内をして下さっているメンバーと山内さんがお知り合いということで、お目にかかることができたのです。

色々なお話をうかがいました。
新たに南三陸の入谷地区で勃興しつつある地場産業のこと、
震災後のすさまじいストレス状況下で人々がどのように生活しているか、
放射能の影響について、
希望を作り出すため、子どもワークショップを企画していることなど・・・

あっという間に1時間以上がたってしまったかと思います。
具体的なある被災者の支援をめぐる山内さんの言葉やふるまいのなかに、静かな深いやさしさを感じました。

山内さんは少し前の朝日新聞のインタビューで、
以下のようにお話しされています。

「過疎化。高齢化。少子化。貧困。格差。
どれも震災前からあり、震災で一段と深刻になりました。
さらに、原発事故でたくさんの人たちが自分の土地を追われたままです。
大量の『避難民』が発生している。
・・・ここで巻き返しができないなら、どこの社会でもできないんじゃないか。」

そして、これからの東北とは、との質問に、
「日本のフロンティア(辺境)です。
これまでも実験地だったし、これからも実験地です。
・・・自分のふるさとをこんな風に言いたくない。
でもフロンティアだからこそ、中央に対して『それでいいんですか』と問い返せる。
発想の転換を求めることができる。
そういう場所です」
と答えていらっしゃいます。

若い方が地元に根をはりつつ発信している姿にこころ打たれます。
今後も機会を見つけて、いろいろなお話をお聞きしたいものだと思いました。

南三陸復興ステーションのHPは、

http://minamisanriku.wordpress.com/

(つづく)

7/13(金)~16(月・祝) 第5回 訪問の報告 その2

先日に引き続き、報告をいたします。

7/15(日)の朝、お世話になっている登米市の地域拠点に職員さんが迎えにきて下さりました。
登米市は南三陸町と隣接していて、被災した多くの方々が仮設住宅での避難生活を余儀なくされています。
ここでお世話になったのは、
「被災地障がい者センター・南三陸」の皆さんです。
ブログはこちら ↓
http://blog.canpan.info/hsc_kenpoku/

三人の職員さんは、皆さん南三陸町のご出身です。
今は登米市に拠点をかまえていますが、
「いつか、きっと、みんなで南三陸に帰るぞ!」
という思いで活動をされています。

さて、職員のAさんのご案内で、南三陸町に入ります。
通いなれた風景ですが、徐々に変化もありました。
例えば、有名な志津川病院は取り壊しが始まっていました。
また、廃墟となった防災庁舎には、慰霊の方々がバスを連ねていらしています。
変わっていく風景の中で、なにを残し、新しいものをつくるか、正念場にさしかかっていることが見てとれます。

とある家庭にて鍼灸治療を実施しました。
このお宅は津波を被害をからくも逃れたのですが、震災後、70代のお母さんは脳梗塞を起こしてしまったとのこと。
マヒは改善されているのですが、足腰に痛みがあって起き上がれないのです。
前回、5月の訪問時に初めてお目にかかり、その際も
「次にまた来ますので、なんとか歩けるようになりましょうね!」
とお約束しましたので、再訪したわけです。
すぐに完全にはならなくとも、少しずつ前向きに生活ができるよう、機会を見つけてお邪魔したいと思います。
このお母さんのご主人さんや、お姑さん、ご近所の方など5名の治療を終え、日中の治療は一旦終了しました。

夕方は、南三陸復興ステーション(宮城大学)に寄り、地元のご出身でもあり新進気鋭の学者さん、山内明美さんとお話しできました。
次回に報告します。

(つづく)

7/13(金)~16(月・祝) 第5回 訪問の報告 その1

はり灸レンジャー・レッドこと舟橋です。
7月の連休を利用して、単独ですが、東北へ鍼灸ボランティアに行って来ました。
簡単に報告をしたく思います。

7/13(金)
夜に仙台空港に到着、便利な空港線という電車で20分ほどで仙台駅にアクセスできます。
夜はおなじみのビジネスホテルに泊まりました。

7/14(土)
予約していたレンタカーを駆って、まず、仙台市内にある障害者団体「CILたすけっと」さんを訪問しました。
ここは震災直後に自立生活をしている障害者をはじめ、職員さんやボランティアがつめかけ、宮城県の障害者復興の一大拠点になった事務所なのです。

震災から1年と4ヶ月がすぎ、特に今年度からは平常業務に戻ってきたとのことで、事務所の雰囲気もさっぱりしたものになっていました。
当日は地域の障害者のサロンが開催されるということで、職員さんと視覚障害をお持ちの方がいらしていました。
最近の様子をお聞きして、事務所を失礼します。

私たち東日本大震災鍼灸ボランティア「はり灸レンジャー」の活動が現地で奮闘されている団体のご協力によって成立します。
お忙しい現地の方には、恐縮ですが、このように随時、顔を合わせて様子をうかがうことは、大切だと実感しています。

午後から石巻市へ移動。
被災地障がい者センター・石巻が共催するイベント「障害者プロレス」を観戦しがてら、石巻事務所のメンバーと意見交換をします。
「障害者プロレス」!?
噂には聞いていましたが、実際に見ると抱腹絶倒の面白さでした。
これに関しては別項目で紹介したく思います。

被災地障がい者センター・石巻さんのブログはこちらです

http://blog.canpan.info/hsc_ishinomaki/

夜は登米市まで移動し、同じく被災地障がい者センター・南三陸さんの事務所にて宿泊させていただきました。
いよいよ翌日が鍼灸ボランティアです。

(つづく)