(画像をクリックで、外部サイト FC2ブログへ)
はり灸レンジャー ~鍼灸震災ボランティア~
旧ブログサイトです。
グループが発足した2011年から、メンバーによる活動報告や関連団体の紹介、被災地の声、ボランティアの声を届けてきました。こちらのサイトに過去の記事も含め、移行中です。
メール: harikyu.ranger@gmail.com
前回「はり灸レンジャー」の活動を特集していただいた温故知新で、引き続き、連載記事を書かせていただくことになりました。第1回目はリーダーで、はり灸レンジャーレッドの舟橋さんが担当です。(タイトルカラーもレッドです。)
[はり灸レンジャー結成前夜] と題して、鍼灸ボランティアをはじめたきっかけなどを綴っています。
次号以降も、各メンバーによる記事を順に載せていただく予定です。ご興味のある方は是非!
温故知新オンライン http://onko-chishin.net/
(ブルー 森川)
こんにちわ、はり灸レンジャーブルーの森川です。
先日、このブログを見て下さったある記者の方に、はり灸レンジャーの活動を取材してもらい、冊子の特集記事として載せていただきました。
月刊「温故知新」といって、「治療家と治療家をめざす人のための鍼灸・手技療法専門マガジン」です。
冊子が置かれているのは、首都圏・関西の医学書取扱書店や、教育機関(鍼灸の専門学校など)です。
残念ながら一般の方の目に触れることは中々ありませんが、治療家の先生や治療家の卵の方に、被災地の現状を知っていただけたらと思います。
私たちの被災地への思いを記事にしてくださりました。
ご覧になられたい方は、出版元の方からも送っていただけるようなので、お問い合わせ下さい。
温故知新オンライン http://onko-chishin.net/
(はり灸レンジャーの特集記事が載っているのは、vol.1 です。)
「からだにいいこむ」の記者の方、いろいろご丁寧に対応していただき、ありがとうございました。
(森川)
こんにちは。はり灸ライトグリーンの坂口友亮です。
今回は東日本大震災により宮城県沿岸部がどのように変化したのかが一目でわかる、そんな写真集を紹介したいと思います。
みやぎの海辺思い出の風景―2011・3・11を境に みやぎの海辺思い出の風景―2011・3・11を境に
(2012/03)
私がこの本を知ったのは、前回の第10回訪問時に、「今の風景を見ても、震災前の様子が分からないので被害にあったという実感がわかない」とはり灸レッドの舟橋先生に言ったところ、「こんな本があるよ」と薦めていただいたのがきっかけでした。
本を開くと左のページに震災前、右のページに震災後の航空写真が載っています。
同じアングルから撮影されているので、震災による変化を比較して見ることが出来ます。
撮影範囲は北は気仙沼市、南は山元町までの宮城県沿岸部の市町と、県境の岩手県、福島県も一部。タイトルの通り宮城県にクローズアップした内容になっています。
いたずらに扇情的な文章やデータは無く、淡々と事実が記載されています。
私も実際に訪れた行程を追いながら、震災前はこんな感じだったのか…と想像をふくらませました。
特に南三陸町の防災庁舎は現地を訪れているだけにイメージがしやすく、いかに津波で一帯が洗い流されているかが伝わってきます。
実際に現地を訪れたことがあると、写真の中の風景に降り立つ事が出来ます。シンプルに写真とデータしかない分、そこから何を読み取り、感じるかは読者次第…という構成になっています。
(坂口)
鍼灸レッド舟橋です。
今回は私たち「はり灸レンジャー」の主たる活動フィールドである南三陸町の人口流出、減少の厳しさについて触れます。
南三陸町はもともと過疎化、少子高齢化が進んでいたとはいえ、3.11までは人口1万7千人ほどを維持していました。
しかし、震災で多くの方が亡くなり、その後土地が少ないため町外に仮設住宅を作った関係もあり、実質的な人口が激減しています。
さらに高台移転の難しさや仕事を求めて次々と町外に人が流れるという悪循環に陥っているようで、2014年春の時点、住民票ベースで1万4千人(南三陸町のホームページより)。
しかし、住民票は置いたまま実質的に町外に暮らしの拠点を移している人々も多いと地元ではささやかれ、実数は1万を切るのではないか、と噂されているほどです。
問題は若い人がいなくなることで、子どもが生まれてこないということです。
南三陸町のNPOで働くスタッフの方の情報によると、今年21歳が195人ぐらい。(昨年の成人の人数)
今年の新小学1年生100人ぐらい。
そして、 去年生まれた子60人ぐらい。
すごい勢いで減っているのが分かると思います。
先日、NHKクローズアップ現代で「極点社会 ~新たな人口減クライシス~」という番組が放送されていました。
専門家によると1万人を割った自治体は急速に過疎化が進み、自治体の存続そのものが難しくなることもある、と言います。
そんな中、朝日新報の次の記事が目に留まりました。
南三陸町からお隣の登米市の仮設住宅に多くの町民の方々が移住しています。
その中で、登米市に永住希望する方が増えているとのこと。
結果として、南三陸の人口がますます減るという予想です。
この登米市は私たちもしばしば訪問しているところで、大型の仮設住宅での治療も2回ほどしてきました。
生活の便利さを考えれば、そういった選択をされる方がたの気持ちもよく分かります。
一方、南三陸町の今後を考えるとなんとも言えない気持ちにおそわれるのです。
新聞記事はリンクが切れるかも知れませんので、そのまま本文を貼り付けます。
http://www.asahi.com/articles/ASG345QZMG34UNHB00Z.html
宮城)南三陸から登米へ人口流出、財源縮むか
伊藤喜之(朝日新聞)
2014年3月5日03時00分
震災後の人口流出が激しい自治体は、国からの地方交付税が大きく減りかねない。国は緩和措置の検討に入るが、その内容はまだ見通せない。三陸沿岸の自治体は危機感を募らせる。
内陸部にある登米市の住宅街では、南三陸町からの人口流入に伴う建設ラッシュが続く。
南三陸町の自宅を流された建設業の佐々木徳弘さん(54)は昨年2月に登米市に家を新築。80代の両親や妻子と5人で暮らす。
「両親も病気がちで、早く広い家に入れてあげたかった。故郷に戻りたい気持ちは山々だが、移転用地の完成を待っていられなかった」
三陸沿岸は海近くまで山が迫り、平らな土地は山を切り崩して造成しなければならない。仙台市などの平野と比べ遅れが目立つ。
佐々木さんは住宅ローンを組むために住民票も登米市に移した。融資を始める時に、原則そこに住んでいなければならないという業界ルールがあるからだ。
南三陸町は仮設住宅を建てられる土地も町内に少なく、480戸を登米市内に建てた。新築した人や、みなし仮設に暮らす人らも含めれば、3千人前後が市町境を超えたとみられる。
南三陸町の中心部には2軒のスーパーがあったが、震災で全壊し、いまだに再建されない。中心部のまちづくりが固まらず、どれほど人口が減るかも見通しにくいことが背景にある。
スーパーや商店が中心部に再建されても、津波を避けて高台に移る住宅地から歩いては行きにくい。登米市での暮らしに慣れた町民が、どれだけ南三陸町に戻るかは不透明だ。
南三陸町が登米市内に造った仮設で1人暮らしをする無職山内文夫さん(78)は昨秋、この仮設を訪れた布施孝尚登米市長に直接訴えた。「早く災害公営住宅をつくってください」
スーパーや病院が歩いて数分の場所にある。こんな便利な生活は生まれて初めてだ。
登米市は昨年11月、南三陸町などからの避難者の意向を調べた。43世帯が登米市内にできる災害公営住宅に入りたいと望んだ。
布施市長は母親が南三陸町出身。「町民を奪うつもりはないが、切実な声もある」。昨年夏、復興庁から予算が確保できそうな災害公営住宅24戸をまず建てる方針を決めた。市に住民票を移した人が対象だ。
これに対し、南三陸町の佐藤仁町長は「首根っこをつかまえて戻ってこいとは、まさか言えない。観光などで交流人口を増やしていくしかない」と話す。
このままだと、南三陸町の人口は国勢調査のある来秋時点で震災前より3~4割少ない1万1千~2千人まで縮みかねない。国勢調査に基づく人口は、国から受け取る普通交付税の根拠になる。
特例がなければ、貴重な財源が10億円規模で減ってしまい、子育て支援やごみ収集といった行政サービスにも影響が出かねない。
ある町幹部は、町内の宿舎などに長く滞在する復興工事の作業員やボランティアに注目している。「少なくとも300~400人はいる。国勢調査で人口にカウントして若干でも取り返す手はある。でも、それもむなしいやり方だ」
(伊藤喜之)
(舟橋)
はり灸レンジャー・レッドの舟橋です。
今回は、東北の巨大防潮堤を考えるうえでヒントになる本をご紹介します。
東北の岩手・宮城・福島の3県。
3.11の大きな被害を受けた太平洋岸で、いま巨大な防潮堤の建設が進んでいます。
今までの当ブログにも何度か投稿がありましたように、現地の各自治体や住民からはその必要性について疑義が呈せられているものもあります。
岐阜県という海なし県に住んでいる私にとって、海の怖さと、また相反する海の恵みについてなかなか実感を得られないのも事実です。
そんな時、防潮堤を考える視点の一つを与えてくれるのが次の本です。
被災地から問う この国のかたち (イースト新書) 被災地から問う この国のかたち (イースト新書)
(2013/06/03)
玄侑宗久・和合亮一・赤坂憲雄 860円+税
商品詳細を見る
被災地に在住する方々が、鼎談という形で行なったシンポジウムを中心に編集された本です。
玄侑宗久さんは僧侶でありかつ作家、和合亮一さんは教師であり詩人です。
ともに福島県在住。
一方、「東北学」を提唱し、震災のはるか前から精力的に活動されているのが学者の赤坂憲雄さん。
赤坂さんの発言が示唆的です。
170頁の記述を要約すると・・・
● 震災後の海岸線を歩くと、至るところに潟ができている。
● 水浸しの泥の海がたくさん。以前、その下は水田。
● 陸前高田の津波に洗われたところも、もともと干潟であった。
その上で、赤坂さんは次のように発言されます。
やや長いですが引用します。
南三陸町が壊滅的な被害を受けていますけれども、あそこも調べてみると、1611年の慶長大地震、津波から40年ぐらいして、町割をつくって、山村部にいた次男、三男がおりてきてつくった町なんですね。何度も津波を受けながら、それでも人口が増えていきますから、その圧力でどんどん海に出ていく。
標高16メートルの高台に立って、指を差しながら教えていただいたんですけれども、実はほとんどかつてそこは海だった。その記憶がまだ生々しく残っているような新しい歴史なんです。人間たちがコンクリートで固めた境界を、自明の前提にしてはいけない。
つまり、3.11のときの境界が自明の前提ではない。それは人口が膨らんでいった時代の選択として、とりあえずつくられた境界なんだ。もう一度、我々が人と自然との境界というものをきちんと引き受ける、考える、そういうきっかけにしないと、同じことを繰り返すかもしれない。
僕は潟を至るところでみていて、潟に返してやればいいじゃないか、というふうにあるとき思うようになりました。潟というのは、かつて生物多様性の宝庫で、漁業が行われ、その潟の周囲には水田が広がっていて、風光明媚な観光地として栄える、そうした場所だったのです。それを、もう一度復活というか、その風景に戻してやるという選択があり得るのだという、そんな議論をしたいなと思いました。
(171頁)
以上、引用おわります。
これは夢物語でしょうか?
開発、経済成長が当たり前と思う人々にとっては寝言に聞こえるかも知れません。
しかし、人口減社会を迎える日本、そして震災によって人口流出に悩む東北がとるべき道の一つにも感じられます。
現地に何度か足を運んでいる者の実感であります。
東北の現状は軽々しく口に出来ないことも多々ありますが、オルターナティブな視点を提示して下さっています。
引き続き東北の声に耳を傾けていきたいです。