南三陸さんさん商店街の豊楽食堂さん

はり灸レッド舟橋です。
今日は鍼灸ボランティアから少し離れたグルメ記事です!

訪問したこのない人には想像できないでしょうが、南三陸では沿岸部は本当に壊滅的に流されて、食事をするところもあまりありません。
そんな中、少しだけ内陸に入った「南三陸さんさん商店街」は復興商店街としてメディアにもしばしば登場し、皆さんも一度ぐらい見かけたかも知れません。
私たちはり灸レンジャーもしょっちゅうお世話になるのですが、第10回訪問の際は、はり灸グリーン吉村さんの推薦で「豊楽(ほうらく)食堂」に入りました。

http://www.sansan-minamisanriku.com/お店一覧/飲食店/豊楽食堂/

震災前から50年続けてきたという老舗の味。焼きそばやラーメンが600円~700円ぐらいと庶民的な値段であるのも嬉しいですね。

少し肌寒い日だったせいもあってラーメンや焼きそばの素朴な味わいに舌鼓を打ったのでした。
ちょうど隣の席に3人組のおばあちゃんたちがいらして、少し会話を交わしました。
一見して地元の方と分かる様子でして、毎週1回は来るよ、震災前からなが~いつきあいだ、とのこと。

この「さんさん商店街」ははっきり言って観光客や私たちのようなボランティアが相手になっています。
もともとの地元の方々が経営されているのですが、実際に多くの町民が仮設住宅でバラバラになったり、人口流出もあって、それは仕方ないことです。
「さんさん商店街」から目と鼻の先に、これも有名な3階建てで壊滅的な被害を受け骨組みだけ赤く残っている「防災庁舎」があります。
そんなロケーションも幸いして観光バスが引きも切らず押し寄せている印象です。
そして、旬の海鮮をたっぷり盛り込んだキラキラ丼なども大変美味ではありますがお値段は2~3千円とかなり高価ですね。
通りすがりの私たちボランティアや観光客は食べてみようと思えるのですが、まあ一見さんです。

街が復興していくためには、豊楽食堂さんのような地元に愛され、頻繁に利用されるお店の存在が欠かせない、と感じた一日でした。

実は、豊楽食堂さんをはじめ「さんさん商店街」以外に私たちはり灸レンジャーが愛用しているお蕎麦屋さんが南三陸の入谷地区にあります。
ここは幹線道路からけっこう入るので、外のお客さんはあまり立ち寄りません。
「蕎麦のすがわら」さん。
どんぶりからはみ出す驚異のアナゴ丼などのレポートをいつか写真入りでしたいと思っています。

地域に開かれたささえ愛山元町

はり灸レンジャー・レッド舟橋です。
第10回目の訪問では後半、森川さんと舟橋の二人で宮城県南部の山元町にお邪魔しました。
ここのNPO法人「ささえ愛山元」さんとのおつきあいも長くなったものです。
http://sasae-i.org/

昨年2013年の秋に沿岸部から高台に移転した「ささえ愛」さんの新しい事業所に着いたのは3月24日の夜でした。
中村理事長自らお迎えして下さり、ご飯や味噌汁までごちそうになってしまったのです。

お年寄りが通うデイサービスの場所なので、広い空間があり、お言葉に甘えて一泊させてもらいました。
翌日は朝から通ってくる利用者さん、ご近所の方々、職員さんに次々と治療を施していきます。
この前の日までは鍼灸師やナース6人体制で余裕があったのですが、この時はレッド(舟橋)とブルー(森川さん)の二人だけ。
汗をかきかき頑張らせてもらいました。
二人の鍼灸師で午前いっぱいかかって15人の治療が出来ました。
ここ山元町は漁業以外に豊かな土地を利用してイチゴやブドウ栽培が有名です。
そういた土地柄のせいか、ささえ愛に通ってくるお年寄りたちもみなさん土の香りのする働き者の印象です。
腰が曲がっている人がおおく、90歳をこえても何かしら農作業なりの生産活動に取り組んでいる姿に感銘を受けます。

さて、結局、二人のレンジャーは一宿一飯でどとまらず、一宿三飯のお世話になってしまいました。
「ささえ愛山元」の中村理事長はユーモアとカリスマ性のある素晴らしい方です。
知らず知らずのうちに多くの仲間を巻き込むパワーがあるように見受けます。

写真は地元紙・河北新報にちょうど掲載されたもので、移転する前の「ささえ愛山元」の拠点を開放して地域の公民館のように使ってもらっている様子です。
アイデアを出し、さまざまな趣味の会などを実施し、自宅に引きこもりがちなお年寄りとの交流サロンの場に活用しているようです。
一見豪快な中村理事長ですが、同時に繊細な感覚で集まった人びとに気配りしている様子に感嘆します。
そして、そういったパワーある理事長の脇をしっかり固めているスタッフの方々の努力には脱帽するところです。

中村理事長から尋ねられました。
「うちにも他からいろいろボランティアさんが来て下さっていて、中には震災から3周年ということで区切りをつけるグループもあるけど、はり灸レンジャーさんはどうなの?」

答えは「継続」です。

はり灸レンジャーは小さな団体ですから形式ばった総会とかありません。
中心メンバー4~6人前後で意思確認をしながら機動的に効率的に、そして無理のないように活動を続けたいと思っています。
そして、2014年春の段階で、東北通いを終了させようという気持ちにはなれません。

メディアの取材の際などによく私は語るのですが、縁ができた東北の方々は遠い親戚のように感じます。
いつもいつも気にかけているとまでは言えませんが、折にふれ思い出す。
そして、出来ることをしたい。
一方的に支援しているという感覚もさほどありません。
私たち自身が活動を通じて多くのことを学ばせてもらっています。
そして、社会学者・山内明美さんが言うように東北は今回の震災によって再びフロンティアという場に立たされてしまったのです。
今後の復興の道のりにほんの少しでも寄り添って、見届けていきたいと個人的には強く思っています。

(舟橋)

南三陸の山間部での治療

はり灸レッド舟橋です。
もうずいぶん月日がたってしまいましたが、第10回訪問(2014年3月)の治療日誌です。

南三陸町での治療は回数を重ねて、患者さんによってはカルテが分厚くなっています。
午前にうかがった入谷地区の福祉型仮設住宅には障害をもった方など、なんらかの理由でお一人暮らしが難しい方がたが入居されています。

各個人のお部屋があり、別にデイルームのようなホールがあり、そこでスタッフが食事を3食用意されてます。
運営を委託されているのは福祉法人で、もともと3.11の前は高齢者施設を運営していたのですが、やはり津波で流されたそうです。

鍼灸治療にも皆さん慣れて下さり、入居している方も、スタッフの方も順番に受けて下さいます。
初回訪問からずっと治療を受けている方、最初こわごわ覗いていたけれども途中から治療を受ける方、さまざまです。
カルテに申し送りがありますので、相手によっては刺激を強くしたり弱くしたりの調整もできます。

この福祉仮設は山里深く入ったところで、多くの利用者はあまり買い物などには行かれません。
時には福祉法人の職員さんの車に同乗して出かけるそうですが。
福祉業界で「生活不活発症候群」という言葉があります。
外出をはじめ生活の中での動きが減り、結果として筋肉・骨格系をはじめ、内臓、引いては精神状態まで不活発になり、病気になりやすいといいます。

私たちの訪問治療がそういった生活のちょっとした変化になれば良いなと願っています。
なかには2、3年前にお配りしたローラー鍼(はり)を熱心に使ってらっしゃる方もいますので、一定の効果が見られます。

都市部の堅苦しい施設ではないので、職員さんも手が空いた方から順番に治療を受けていただけるのも嬉しいですね。
なにせここは施設長さん自身が大の鍼灸ファンなので。

今回は、案内役の「奏海の杜」さんのスタッフも飛び入りで治療を受けられまし、近所の南三陸復興ステーションの職員さんも顔をわざわざいらして下さいました。
何度も足を運ぶなかで信頼関係が醸成されていることを嬉しく思います。

気仙沼の街づくり (最終回)

はり灸レッド、舟橋です。

2014年3月の第10回訪問の報告が続きます。
気仙沼のコミュニティ再生に奔走している三浦友幸さんにうかがったお話しの3回目、最終回です。

前回の投稿では気仙沼での様々な町おこし、産業の再生について書きました。
新たな狙いの観光以外にも、地域通貨の「Reneria」(リネリア)など先進的な取り組みもあるそうです。
これは三浦さん自身の感想ですが、
「私も気仙沼の地元の人間で、気仙沼というのは陸の孤島などと言われていて、知らず知らず自分もそうだと思っていた。
けれどマグロ漁やサンマ漁などで、世界中の港と繋がっているせいか、グローバルな視野をもつ経済人もけっこういることを再認識した」
とのことです。

これは興味深い視点ですね。
グローバルな視野で、ローカルに行動する。
これは本当に大事なことで、私自身もいつもそのようになりたいと努力しているのですが、気仙沼の方々は自然と実践されているのでしょうね。

さて、仮設住宅や様々な復興政策です。
ご存知のように仮設住宅はもともと2年限定ですが、すぐに3年に延長されました。
今後も順次延長していかざるを得ないでしょう。
その他、防潮堤や土地のかさあげなどの事業にもそれぞれの期限が設定されていますが、現実には今後1年や2年ではとうてい無理でしょう。
人手不足、人件費や資材費の高騰、その結果として入札不調などの話はあちこちで聞きます。
いずれ、かさ上げは破綻するであろうとの指摘も出ています。

ですからダラダラと支援事業の期限を短い単位で延ばしていくのではなく、もう少し中期・長期的視野にたって、より柔軟な支援策を自治体ごとに繰り出していかなければならないと思われます。

以上、3回にわたって三浦友幸さんのお話を要約してきました。

被災地の状況はどんどん外からは分かりにくくなっています。
私たちもついつい紋切型の理解らしきものに寄りかかりたいという誘惑におそわれます。
しかし、決して公務員さんがさぼっているとか、不正に復興資金が流用されているとか、そういう単純な問題ではないのです。

住宅の問題、仕事の問題、教育、人口流出、その結果コミュニティ再生の難しさなど、全体がからみあって解けない方程式のようになっているように感じます。
大事なことは一つひとつを丁寧かつ迅速に、そして民意をくみとりながら進めることだと思われます。
その場合、かつてのような高度経済成長のモデルではなく、自治体ごとの人口規模に適する、つまり身の丈にあった計画が必要であると痛感した次第です。

これで三浦さんのお話しの要約は終わります。
はり灸レンジャーのブログとは言いながら、鍼灸に関することにほとんど触れられませんでしたので、次回から南三陸町や山元町での治療の様子を投稿するつもりです。

(舟橋)

活動に参加させていただいて感じ考えたこと (その二)

今年の3月、4月には仙台市東松島市、女川町、などで災害公営住宅の入居が開始し、喜びの声が報じられていました。私もとてもうれしくなりました。
しかし報じられている記事の中に、気になる声をみつけました。「いざ仮設住宅を出るとなると、仮設住宅の知人と離れるのがさみしい。公営住宅では隣人もわからず落ち着かない」
仮設住宅での生活が3年を超える方々がいらっしゃいます。震災により被災し自宅を失ったストレスの中、慣れない環境で様々な思いをされながら一人一人が過ごされてきたのだと思います。
一方、仮設住宅での3年という月日は、そこに住む人々がコミュニティを形成する時間にもなりました。たとえ仮の住まいであっても、それは「住む場所」であり、仮設住宅に住むという共通性をもつ人々がともに過ごす中で親しくなる人ができても不思議ではありません。そしてその人と人とのつながりが、仮設住宅での日々を過ごすのに重要であることが「声」から感じました。
災害公営住宅に入居するのを待ち焦がれ、喜ぶ人がいる一方で、仮設の生活が居心地がいい人もいることがわかりました(※2)。
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(※2)
震災学vol.3(発行:東北学院大学、発売:荒蝦夷)
仮設住宅に住む人々の声が詳細に記されており、現状や課題がわかります。
阪神・淡路大震災(1995年)、北海道南西沖地震(1993年)、雲仙普賢岳噴火災害(1990年)関東大震災(1923年)など、今まで起きた大きな震災とそこからの復興の歩みが、仮設住宅に関連する話を中心にかかれており、非常に興味深く読みました。
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そう思ったとき、私は「仮設に住む人」というくくりで全て一緒くたにしていまっていることに気づきました。
本当は、一人一人の置かれている状況や抱える問題は違います。良く考えれば当然なのですが、少なくとも私は被災地、被災者というくくりで考えていました。
本当は、人の数だけ悩みがあり、同じ被災者であっても考え方が様々です。
合意形成の重要性は、それが復興を早めるためであることが挙げられますが、「仮設住宅」という「住民が徐々に抜けていくコミュニティ」におけるコミュニティづくりがいかに難しいかということを考えます。
今回の滞在中に読んだ本で、復興がなかなかすすまない理由について、防潮堤計画とまちづくり・住宅再建との関連からわかりやすく説明されていました。また、防潮堤を勉強するためにつくられた「防潮堤を勉強する会」や、水産関連業から林業やバイオテクノロジーへの挑戦など、住民主体の活動や新しい産業を発起させていることを知ることができました。
復興のために活動している人々が、市民のなかにいるんだと感じました。彼らは、自分たちのまちのことを真剣に考えています。

私は自分を振り返りました。私は自分が住むまちについて、正直興味がありませんでした。知ろうとしてきませんでした。今後大きな震災があり、町が壊滅し、あたらしくまちづくりを、という流れができたとき、私ははたして何を思いどう行動するのだろう。
震災をきっかけにして、復興という道を歩む東北の姿は、日本が将来直面するであろう問題を早く体現しているにすぎないという言葉をきいたことがあります。いずれ日本が直面する問題と言われているのです。
人口現象と高齢化が進んだとき、町の在り方はどう変わっていくのだろう。身近に感じなければ、易々と考えられない問題ですが、震災からの復興の歩みのなかに、ものすごく大切なヒントが本当にたくさんあるということを感じています。
自分のまちのことをもっと知ろう、と思いました。予算はどれだけで、どのような計画がされていて、収支はどうなっているのだろう。今後人口が減少し、少子高齢化がすすむと、このまちはどうなっていくのだろう。
そして、自分の将来のことも考えたくなりました。今は若いし健康だけれど、年を重ねていったとき住みやすいまちなんだろうか。未来のことはもちろんわかりません。でも、考えていくことが必要だと感じます。今が未来につながっているからです。過去をみて、未来をみて、今どうするか。それが問われているのだと思います。

(今後考えていきたいこと、調べていきたいこと)

・仮設住宅におけるコミュニティづくりの必要性
・コミュニティづくりの方法と課題
・災害公営住宅に住む人々が経験する困難と解決のためにとりくみ
・まちづくりの方法(市民の立場から)
・私にとってのコミュニティ
・今わたしができること

ホワイト吉村(吉村美陽子)

活動に参加させていただいて感じ考えたこと (その一)

こんにちは。ホワイト吉村こと岐阜の吉村美陽子です。
このたびの活動にて、カラーがホワイトに決定しました。
よろしくお願いいたします。

活動から岐阜に戻り、ずいぶん時間が経ってしまいました。
感想を文章にあらわすのは困難を極めました。私は元来考えはじめると関心ごとが数珠つながりにつながり、調べに調べ、納得と疑問を繰り返しながらゆっくりとフェードアウトしていくというくせがあります。
生みの苦しみでなんとか今回文章にしたためましたが、てんでまとまっておりません。しかしこれが今回の訪問のおかげで私の頭の中に生まれた考え、想い、関心です。申し訳ありませんがどうかご了承ください。

私にとって3回目の訪問となる今回の活動は、それまでと比べ自分自身の肩の力がずいぶん抜けていたと感じます。
それまでは、仮設住宅を見れば「震災で家がなくなってしまったんだ」、訪問先の人々の話をきけば「震災により日常が一変してしまったんだ」と悲しく辛い気持ちになったり。自分にはなにもできないという無力感が湧き精神的に苦しくなることもありました。
しかし今回、南三陸町で約1年前に訪問したときにはなかった復興道路の建設現場や沿岸部の盛り土を見て、「復興が進んでいるんだ」と明るい光が見えたような気持ちになる一方で「実際復興道路ができたら立ち寄る人が減るのではないか」、また、盛り土のところには商店街ができるそうですがその周囲に住宅は建設できないため「人が住まないところに商店街ができて果たしてやっていけるんだろうか」という声を聴いたとき、「復興」という言葉のうらに隠れている、人々の不安を垣間見たような気がしました。
「復興」という言葉で、みえにくくなる存在があるのではないかと感じました。
初めて「復興てなんだろう」という疑問が湧きました。
震災から3年が経過した東北の地で、どのようなことが起きていて、どのような課題があるのか、それをみつめたいという気持ちを強くもちました。
復興とはなにか。まずはじめに浮かんだのは「こわれたものをつくりなおす」でした。

住宅が壊れたのならば建て直す。交通網が壊れたのであればつくりなおす。
「つくりなおす」のは再びそこで生活できるようにするためですが、津波で浸水した場所は危険区域と定められ住宅を建てることができないため、同じ場所に同じものをつくりなおすことができないという現状があります。
そもそも生活するためには何が必要なのだろうと考えると、まちという言葉が浮かびました。まちには学校、病院、金融機関、スーパーなど生活するために必要なものがたくさんあります。
当たり前ですが、家が建てばよいという話では決してありません。そこには「まち」が必要です。
「まち」ってなんだろうと考えました。普段考えたことがないので一瞬どう考えればよいか悩みました。それくらい考えたことがありませんでした。
「まち」とは、あらゆる年代の人々が共存する場だと考えました。ライフステージにより、学校へ通うことが必要であったり、病院に通うことが欠かせなかったり。町がなければ人々は集まらない。反対に人々がいなければ町はできない。共存関係にあるのだと感じました。
そのまちをつくり、人々の生活の場をつくるために、震災が起きた年から各自治体は住民の意向調査を行い、災害公営住宅の必要数、建設場所等を思案し進行してきました(※1)。災害公営住宅とは、仮設住宅(原則2年居住可、現在1年ごとに延長可能)と違い被災者がずっと住むことができる場所です。
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(※1)
今回の宮城訪問の前に、NHKスペシャル「どう使われる3.3兆円 ~検証・復興計画~」という番組を見ました。被災地の町づくりにおける深い問題を知りました。
番組内容:震災から3年、被災地では復興計画に基づいて新たな町作りが進められている。しかし、想定以上の人口流出が続くなど様々な課題があることがわかった。その実態を検証する。
詳細:東日本大震災で被災した宮城、岩手の沿岸市町村すべてについて、復興計画の進捗(しんちょく)状況を取材。当初は地元に残る意志を示した住民が、自治体の想定以上に流出していること。そのために高台移転や区画整理事業などを進めているものの、その後の青写真がなかなか描けないこと。計画変更の必要性を認識しながら踏み出せない自治体が多いことなどが見えてきた。今後の復興に何が必要か、浮かび上がった課題から検証する。
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=200&date=2014-03-09&ch=22&eid=21068&f=46
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気仙沼の街づくりの取り組みをうかがう

はり灸レッド、舟橋です。
先日の記事に引き続いて、気仙沼でコミュニティ再生のため尽力していらっしゃる三浦友幸さんからうかがったお話を追記します。
今回は、街の復興の取り組みです。

(気仙沼市の産業復興について)

1) いくつかの事業所が集まり共同で申請すると初期投資など60%前後の補助金が出る。

2) かつて遠洋マグロ漁で栄えた気仙沼市だが、今後は水産プラス観光に力点を入れていこうという動きがある。
三浦さんもこの流れには同意するとのこと。
その中で、「リアス観光創造プラットフォーム」という取り組みがあります。

これは気仙沼市の観光戦略会議の議論の中から出てきたもので、単に戦略を立てるだけではなく、実体的な動きを担えるように、しかもそれを行政主導ではなく、市内外の民間団体やNPOをまきこみ、大きな戦略で実施していこうという試みだそうです。

観光戦略会議に関しては、気仙沼市のHPを ↓
http://www.city.kesennuma.lg.jp/www/contents/1331267290519/index.html

リアス観光創造プラットフォームに関しては、こちらに紹介記事がありました。 ↓
https://www.civic-force.org/news/news-1167.php

この観光の試みの中では、旅館ではなく普通のうちに泊まってもらう民泊を志向するなど、気仙沼の日常を見てもらいたい、というコンセプトだそうです。
気仙沼に暮らす人々にとっては見慣れた風景でも、旅行者にとっては興味深いものもあるはずです。

たとえば・・・

3) つばき会の出船おくり
三浦さんが教えてくれたのは「つばき会」です。
とあるHPによると、気仙沼つばき会とは、
「震災の2年前の2009年4月に、気仙沼を盛り上げようと設立されたおかみさん会。
気仙沼港から一斉にさんま漁に出る船を見送る「出船式」などを行ってきた。
現在会員は26名。」
とのことです。
この出船式なども、かなりの見ものであろうと予想されます。

ネット上で探してみると、youtubeに、
「気仙沼 出船おくり 主催:つばき会」の映像上がっています。
https://www.youtube.com/watch?v=1w9EUxSkad8

また、
4) 俳優の渡辺謙さんが企画したカフェも市内にあるとのこと。
http://www.k-port.org/
ときどき(月に1回ぐらい?)、なんと!謙さん自身がカウンターに入ってコーヒーを入れて下さるそうです。
一度うかがいたいものですね。

5) その他、観光以外の産業としては・・・
間伐材を使ったバイオマスのプラントが2014年の4月から試運転するようです。
お隣の南三陸町では、木質ペレットの産業的な取り組みがあるとも聞きます。
こういった産業は、巨大な労働市場を産むわけではないでしょうが、来るべき人口減社会にむけて、それぞれの地域で身の丈にあった産業、エネルギー政策を考える際にヒントを与えてくれるかもしれません。
私(舟橋)は不案内な分野ではありますが、現地の方がたの取り組みに熱い視線を注いでいきたいと思いました。

(気仙沼の三浦さんのお話は、あと1回ほどつづきます)

春のお彼岸に気仙沼を訪れる

レッドこと舟橋寛延です。
記念すべき10回目の訪問を無事に終えられ、まずはホッとしています。

今回は多くのメンバーが夜行バスなどで早朝に仙台に集結し、慌ただしく活動を展開しました。
昨年来、宮城県の北限、気仙沼市とのご縁ができ、今回もまず一路車は北上しました。

まず3/23(日)
気仙沼でご自身も大きな被災をこうむった三浦友幸さんの案内のもと、大谷中学校の仮設住宅を訪問しました。
ここは気仙沼市内では最大級の186戸が建設され、集会場も立派なものでした。

なお各自治体は仮設住宅の情報をネット上で公開しています。
たとえば、気仙沼市 ↓
http://www.city.kesennuma.lg.jp/www/contents/1326186289670/
こうしたものを事前に調べて、戸数の大きさや、位置などを事前に調べておくと、住民の方々との会話もスムーズに運ぶことがあります。

大谷中学校では三浦さんの紹介のもと、自治会長さんご夫婦も協力いただき、ベッドなどの設営、治療と進みます。
この日の施術は18名。
大規模仮設ではあるのですが、予想よりは少なかったです。
漏れ聞く話では、やはり
「鍼(はり)って、おっかない」
という声もあったようで、それは至極当然な反応でしょう。

しかし、最初に受けた方が、
「良かったよ」と勧めて下さって、ご友人の方が受けに来られる一幕もあり、今後継続した取り組みができれば一層ニーズは広がると思われます。

名古屋や大阪、神戸の街中とちがい、医療機関がそもそもあまりない土地です。
からだのあちこちに不調があっても選択肢が豊富にあるわけではないのです。

これまで私は合計9回、被災地に足を運んでいます。
この大谷中学校で治療の合間に聞かせていただいた住民の方の話からは、復興の足取りの遅さに対するあきらめのような口調が印象に残りました。

また、中学校の敷地を借りて生活していることに対する後ろめたさ、申し訳のなさも漏らしていました。
現状に不満や不安を持ちながらも、未来への希望を持ちにくい様子に、一ボランティアとしては胸が締めつけられる思いです。

お彼岸の最中でしたので、あるいは患者さんはあまり来られないかな、とも懸念したのですが、お年寄りに限らず、比較的若い方々も顔を出して下さったのは幸いでした。
たまたま最近のボランティア訪問は春と秋のお彼岸に重なるので、慰霊の気持ちの只中にある人々のもとを無遠慮に訪れているのではないかと、やや懸念しているのです。

不作法さや配慮の無さに注意しつつも、ある局面では決然と行動しなければと思います。

(つづきます)

ボランティアを続ける思い

はり灸レンジャーブルーの森川です。

自身としては、数え直さなければわからなくなるほどの8回目の訪問となりました。新たな訪問場所や出会いもあり、久しぶりの訪問もあり、もうお馴染みともいえる訪問もあり、また有意義な活動となりました。

ボランティアというのは自らの意思で行くものですが、今回の訪問前には新聞で紹介していただいたり、ご支援をいただいたりと、いつも以上の責任感と使命感も背負って行くことになりました。

その一方で、まだボランティアを続けるの?という声もあります。いつまでも支援していては、自立の妨げにもなるとも。また、遠く離れた地では、被災地の話題が薄れていっているのも、事実です。その結果、助成金も限られ活動資金が少なくなっているのも不安の一つにあります。

そんな複雑な思いの中、今回のボランティアを終えて出てきた答えは、まだまだ活動は続けなければという思いです。

被災地の復興は、道路などのインフラは整備されてきているものの、住民の暮らしがまだまだ不十分です。災害復興住宅への入居は、3年先という話も聞きます。長い仮設住宅暮らしが続くことで、様々な問題も増えています。自殺者が増えている、アルコール依存症が増えている、がんの進行率が早いのではないか、ということなどをお聞きしました。どれも深刻な悩みです。特にコミュニティーを寸断されたような地で、顕著に増加しているようです。

施術中にも、「眠れない日が続く」「お酒の量が増えている」「以前のように病院に通えない」「運動もできないので太っていくばかり」という声は、幾度となくお伺いしました。心身からくるつらさが、先の問題にも影響していると感じます。そんな被災地の声を直接聞くと、もう活動を止めようという気持ちにはなれません。

医療も震災直後の急性期は過ぎ、これからは慢性期疾患などの対策がテーマになっています。そうなると日頃のケアが重要となってくるので、鍼灸などの代替医療のニーズはますます上がってくるのでしょう。むしろこれからこそが、鍼灸師の出番と言っても過言ではないかもしれません。

ただ、何より心を動かすものは、「鍼灸を受けれてよかった」とか、「また来て欲しい」といった、被災者の生の声に他なりません。

森川真二

震災後はじめての東北訪問

こんにちは。今回はり灸レンジャー初参加の”グレー”鈴木一成です。グレーのズボンをはいていたからグレーです。(深い意味はありません。)

私はもともと積極的にボランティアなどに参加するタイプではありませんが、あの震災後、被災地の方々には何もできず、心の中にどこか後ろめたい気持ちを抱えたまま時間が経ってしまいました。そこで昨年度よりお世話になっている反応点治療東海講習会でこのボランティア活動を知り、参加を希望しました。ですから今回の東北訪問はボランティアといいつつも私にとってとても有意義で貴重な体験となりました。

震災前に一度東北を旅したことがあります。その時感じた東北の人のイメージは「優しくて、穏やかで、どこか暖かい」。今回私が接した方々もやはりそんな感じの人ばかりでした。決して消えることのないであろう震災のダメージを全く感じさせる事なく、みなさんとても優しく私たちを迎えていただき、治療中も明るく話していただきました。
しかし、現地で活動されている三浦友幸さん、小野寺ふさ江さんのお話を聞くと三年経った今また次々と問題が生まれているようです。先行き不透明でいつ出られるかわからない仮設住宅の中でストレスがない訳がありませんね。それも東北の人の強さと優しさで乗り切っているのでしょうか?小野寺さんのお話の中で
「みんな自分より困っている人がいると思ってなかなかSOS出さないんです。」
とおっしゃっていたのが印象的でした。

二日間の活動が終わり、南三陸を後にした時
「果たして自分のつたない鍼治療は被災地のみなさんのためになっただろうか?」
と考えました。今回は被災地のみなさんの優しさと強さに私の方がパワーをいただいたように思います。しかし私自身、復興のお手伝いとして一歩を踏み出しスタートできたことはとても大きなことだと感じています。
南三陸から仙台に向かう車中、右にはきれいに土が盛られた広い更地のあちらこちらに重機が入り、復興工事が進んでいます。そして左には春の午後の陽に照らされ、淡いピンク色の光に包まれた三陸の海がとても静かに広がっています。
“思わずため息が出るほどの美しさ!”
あの時この場所で何が起こったのか全く想像できない優しく穏やかな風景でした。

今回受け入れていただいた被災地のみなさん本当にありがとうございました。一日も早く、できるだけたくさんの人々が理解し合える復興を願っています。またお手伝いできれば幸いです。

鈴木一成