今年の3月、4月には仙台市東松島市、女川町、などで災害公営住宅の入居が開始し、喜びの声が報じられていました。私もとてもうれしくなりました。
しかし報じられている記事の中に、気になる声をみつけました。「いざ仮設住宅を出るとなると、仮設住宅の知人と離れるのがさみしい。公営住宅では隣人もわからず落ち着かない」
仮設住宅での生活が3年を超える方々がいらっしゃいます。震災により被災し自宅を失ったストレスの中、慣れない環境で様々な思いをされながら一人一人が過ごされてきたのだと思います。
一方、仮設住宅での3年という月日は、そこに住む人々がコミュニティを形成する時間にもなりました。たとえ仮の住まいであっても、それは「住む場所」であり、仮設住宅に住むという共通性をもつ人々がともに過ごす中で親しくなる人ができても不思議ではありません。そしてその人と人とのつながりが、仮設住宅での日々を過ごすのに重要であることが「声」から感じました。
災害公営住宅に入居するのを待ち焦がれ、喜ぶ人がいる一方で、仮設の生活が居心地がいい人もいることがわかりました(※2)。
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(※2)
震災学vol.3(発行:東北学院大学、発売:荒蝦夷)
仮設住宅に住む人々の声が詳細に記されており、現状や課題がわかります。
阪神・淡路大震災(1995年)、北海道南西沖地震(1993年)、雲仙普賢岳噴火災害(1990年)関東大震災(1923年)など、今まで起きた大きな震災とそこからの復興の歩みが、仮設住宅に関連する話を中心にかかれており、非常に興味深く読みました。
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そう思ったとき、私は「仮設に住む人」というくくりで全て一緒くたにしていまっていることに気づきました。
本当は、一人一人の置かれている状況や抱える問題は違います。良く考えれば当然なのですが、少なくとも私は被災地、被災者というくくりで考えていました。
本当は、人の数だけ悩みがあり、同じ被災者であっても考え方が様々です。
合意形成の重要性は、それが復興を早めるためであることが挙げられますが、「仮設住宅」という「住民が徐々に抜けていくコミュニティ」におけるコミュニティづくりがいかに難しいかということを考えます。
今回の滞在中に読んだ本で、復興がなかなかすすまない理由について、防潮堤計画とまちづくり・住宅再建との関連からわかりやすく説明されていました。また、防潮堤を勉強するためにつくられた「防潮堤を勉強する会」や、水産関連業から林業やバイオテクノロジーへの挑戦など、住民主体の活動や新しい産業を発起させていることを知ることができました。
復興のために活動している人々が、市民のなかにいるんだと感じました。彼らは、自分たちのまちのことを真剣に考えています。
私は自分を振り返りました。私は自分が住むまちについて、正直興味がありませんでした。知ろうとしてきませんでした。今後大きな震災があり、町が壊滅し、あたらしくまちづくりを、という流れができたとき、私ははたして何を思いどう行動するのだろう。
震災をきっかけにして、復興という道を歩む東北の姿は、日本が将来直面するであろう問題を早く体現しているにすぎないという言葉をきいたことがあります。いずれ日本が直面する問題と言われているのです。
人口現象と高齢化が進んだとき、町の在り方はどう変わっていくのだろう。身近に感じなければ、易々と考えられない問題ですが、震災からの復興の歩みのなかに、ものすごく大切なヒントが本当にたくさんあるということを感じています。
自分のまちのことをもっと知ろう、と思いました。予算はどれだけで、どのような計画がされていて、収支はどうなっているのだろう。今後人口が減少し、少子高齢化がすすむと、このまちはどうなっていくのだろう。
そして、自分の将来のことも考えたくなりました。今は若いし健康だけれど、年を重ねていったとき住みやすいまちなんだろうか。未来のことはもちろんわかりません。でも、考えていくことが必要だと感じます。今が未来につながっているからです。過去をみて、未来をみて、今どうするか。それが問われているのだと思います。
(今後考えていきたいこと、調べていきたいこと)
・仮設住宅におけるコミュニティづくりの必要性
・コミュニティづくりの方法と課題
・災害公営住宅に住む人々が経験する困難と解決のためにとりくみ
・まちづくりの方法(市民の立場から)
・私にとってのコミュニティ
・今わたしができること
ホワイト吉村(吉村美陽子)